ヴィシュバーンの末裔 〜月神の誘惑〜 6
第一章 異世界の旅人 D上
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自室に戻ったユリアは鏡の前に座ると、鋏を手に取った。
鏡の中の自分は十六歳に戻ったよう。ただ瞳の色だけがそれと違う。
ユリアはチェストの鏡に映る、王女の顔をうっとうしげにみつめた。
この国の人々も大概日本人と同じ黒い瞳に黒い髪だったはず。だとすると王女だけが琥珀の瞳なのだろうか。
まぁ、瞳の色くらいこの体の使い勝手の悪さに比べればなんということはない。
朝稽古のため、少し体を動かしただけで、すぐに息切れしたのには本当にびっくりさせられた。
しかしそれも修練しだいで、いずれもとの体と同じように動くだろう。
あれから、マイヤの部屋を飛び出した後、広い中庭を何周か走って心を静めた。あのイラついた気分を人に覚られるのは自分の誇りが決して許さない。
明朝、この身体はきっと盛大な筋肉痛に悩まされることだろう。
花の宮に戻ったユリアは用意されていた食事をとった後、まっ昼間から入浴を促された。
まだ昼日中から風呂に入るのはいい。しかしマーサが風呂の中までやってきて自分の世話をしようとするのには、本当に閉口させられた。
彼女が自分の世話をしぶしぶあきらめて浴室をでていったときは、湯に浸かりすぎてすっかりのぼせていた。
どうも王女の生活というのは心臓に悪い。
侍女がとっかえひっかえやってきて世話を焼くのも、庶民の自分にはどうにもなじめない。まるで動物園の珍獣にでもなった気分だ。
それらはユリアが日本にいるときと同じく、女性の興味を引いているからに他ならないのだが、頭の回転は速くとも人の感情の機微には疎い、ユリアにそれを気づけといっても無理な注文だろう。
「ユリア様、なにをなさっておいでですか?」
マーサは茶だの菓子だのを持ってユリアの顔を見たがる侍女達を追い払うと、やっと自分の主人に声をかけることができた。
「ああ。マーサか。髪を切っている」
ユリアは風呂から上がった後、マイヤから借りた白地に銀の刺繍がほどこされた長衣と同じ柄の下衣を身に着けている。
姿勢がいいからだろう、すっきりした身のこなしは驚くほど凛々しく見えて、侍女たちがユリアを見て騒ぐのも無理はないかとマーサはおもう。
「お手伝いしましょうか?」
「ああ。頼む。
そういえばマーサ。王女は琥珀の瞳をしているな。
王妃は他所(よそ)の国から嫁がれたのか?」
「えっ!」
そういえば不思議と照れたような気持ちになって、ユリアの顔を間近で見ていなかった。
マーサは鋏を手渡してくるユリアの、前髪に隠された切れ長の瞳を覗き込む。
確かに自分の姿が映しこまれている瞳は琥珀で、虹彩が光りの反射を受けると金色に光る不可思議な瞳だ。いつまでもその瞳に映されたいと願ってしまいたくなる。
「これは・・・・・!どうしたことでしょう。
瞳の色が変わっています。琥珀というより金色に」
「金!あの女好きのオッサンの嫌がらせか?」
「おっさんというのはどなたのことでしょうか」
先程もユリアはその言葉を誰かに対して使っていた。マーサは湧きあがるいやな予感を抑えてユリアにたずねた。
「マーサも知ってるだろう。ヴィシュバーンとかいう節操なしの女好きだよ!奴の瞳の色は金なんだ」
「・・・・・・・!
それはまさかあの、ヴィシュバーン神のことをおっしゃっておいでではないでしょうね?」
マーサはもちろん、この国の民としてヴィシュバーンの瞳が金色だということは知っていた。知ってはいたが、おっさんという言葉がどうしても自分の神と重ならない。
「いや。創造神ヴィシュバーンだ。あいつときたら・・・・・・」
ユリアは忘れていたこもごものことをすっかり思い出していた。
あれはやっと前世の記憶を取り戻した頃だった。
毎夜ユリアのもとに眠りの妖精は少しも訪れず、月の満ち欠けに地球の自転をしらされるのにすっかりあきあきしていた、そんな夜。
ユリアの狭いマンションに太陽のような黄金の髪に金の瞳を持つ、圧倒的な美貌を持った男が降臨した。この世界で美貌の神と言われる『アポロン』だの『クリシュナ』だのよりはるかにこの男は美しいと思われた。神は自身の持っている力が美しさと比例するのだから・・・・・。
だから、この凄まじい力を持つだろう男を凌ぐ美貌の神など存在するはずがないのだ。
だが、ユリアはどんなに美しかろうと、マイヤ以外の男に関心はない。ビスケットのかけらほどもない。
やっかいなのがきた、そうおもっただけだ。
ヴィシュバーンは金の瞳を甘やかに揺らし、一夜の夢へと誘(いざな)う。
(けっ! 女なら誰でも自分に靡くとおもっていやがる)
ユリアは神の傲慢さに吐き気さえ感じたが、無理矢理笑顔をつくると取引を持ちかけた。
『あなたと一夜を過ごす代償をいただけますか?』
ヴィシュバーンは軽く眼を瞠ったが、是(いいだろう)と応えた。
神に恋人との再会を約束させる。
ヴィシュバーンはどういった理由からなのか、ユリアとの子どもが欲していた。
ユーディトともう一度会うためなら『子どもの一人や二人つくってやる』とおもっていたユリアだが、ヴィシュバーンのセクハラ大魔王ぶりにはほとほと疲れきってしまった。
(さっさとすることをしやがれ!)
と、心のなかで叫んでいたが、なんせ敵は神様である。
つれなくしたら後でなにをされるかわからない。もちろん自分ではなく、自分の恋人が、である。
ユリアは仕方なく巨大な猫をかぶって、ヴィシュバーンの相手をした。
神はそんなユリアの何を勘違いしたのか、彼女を甘い言葉でたっぷりと口説いた後、押し付けがましいキスを何度も繰り返した。
しかも、布越しにとはいえ、気に食わない男に触りまくられるのは、怖気が振るうほど気持ちが悪い。項(うなじ)に口づけられながら胸に触れられたときなど、頭の中で数を数えていたほどだ。
(ああ、こんな調子で最後まで持つんだろうか?)
ユリアは大きな不安と必死で戦う。
しかし、遅まきながらとはいえ、ユリアの無反応振りに気づいたヴィシュバーンは、『感じていないのか?』と、不信そうに聞いてきた。
『わたしは不感症なのです。
けれど子作りに感度は無関係ですから、さくさくとお願いします』
ヴィシュバーンの瞳は再度、珍しいものを見たように見開かれる。
確かに彼の長ーい長ーい人生のなかで、ここまで女に無関心な態度を取られたのは初めてだっただろう。
『いや、関係はすごくある。男心は繊細なのだよ。
今日のところは帰らせてもらおう。』
そそくさと帰り支度をするヴィシュバーンの袖を引いて、ユリアは彼を引き止めた。
『約束は守っていただけますね』
『わたしはことに及んでいない』
『それはそちらの事情です。
まさかあなたが約束を破るだなんて、ヴィシュタールの民は何を信じたらいいのでしょうか?
もし、ビセラ様がお知りになったら、大層お嘆きになるでしょうね』
ユリアは肩を震わせて悲しんで見せた後、最後のダメ押しとばかりにヴィシュバーンの意中の娘の名前を出して脅しにかかった。
『・・・・・わかった。約束はまもろう。
しかし、こんな女に惚れるとはあの男も奇特なことだ』
ヴィシュバーンは大きな溜め息をつきながら、小さな声でぶつぶつと『本当に奇特だ。』とつぶやく。
ユリアはその苛立たしい言葉を、堪忍袋の尾が切れかかるのを必死につなげながら、右から左へと聞き流した。
そして『さすが最高神!太っ腹ですね。』と、持ち上げておくことも忘れない。
その後、ヴィシュバーンはしぶしぶユリアをヴィシュタールに送ってくれたが、彼女の記憶をとりあげてくれたのは、ヴィシュバーンのささやかな意趣返しだったに違いない。
ユリアはやっぱり神などというものは、政治家と同じで信用できないと思う。
(あの時のことを絶対根に持ってるな)
ユリアは自身の琥珀に変わってしまった瞳をあらためて見つめた。
確かにユリアのいうとおりヴィシュバーンはかなり根に持っていた。それはユリアに脅かされたからではない。男としてのプライドを再生不可能なまでに粉々にされたためだ。
肉体が変わったユリアに例の体質(不感症)はないと見たヴィシュバーンは、再チャレンジを虎視眈々と狙っているらしい。
「そんなことをおっしゃってはいけません」
マーサは神に対して不遜なことをいうユリアを軽く叱った後、好奇心が抑えられなかったのだろう、目を輝かせながら聞いてきた。
「もしかしてお会いになったのですか? ヴィシュバーンに」
「ああ。言い寄られた」
(なるほど)と、マーサはおもう。
神は彼女に自分を忘れずにいて欲しかったのだ。
だからユリアの瞳を自分と同じ金色に染めたのだろう。鏡を見るたびユリアが自分を思い出すように・・・・。
しかし神の瞳を模したものに力が宿らないわけがない。
後にユリアは、ヴィシュバーンの大きなお世話にたっぷりと感謝することになる。
「マーサ。わたしが本当の王女ではないと知っているのはおまえだけか?」
「いいえ。昨夜マイヤ様に呼ばれたのはわたしだけではありません。
陛下とこの宮の護衛官の長カーライトも一緒でした」
「そのカーライトというものを呼んでくれ。
二人に教えてほしいことがある」
マーサは王女の部屋のドアを開けると、すぐ外で警護に当たっていたカーライトを呼ぶ。
「カーライト!ユリア様がお呼びですよ」
(マーサの声は、でかいな)
彼女の声はたぶん花の宮じゅうに響き渡ったのに違いない。
しかし、マーサの大声に慣れきっているらしい男は、
「少しお待ちください」
と顔色を変えずにいうと、宮の南表にある護衛官の詰め所へと走っていった。
カーライトは待機していたらしい別の護衛官にその場を託すと、マーサの勧めにしたがってユリアの前へと腰を下ろした。
(この男、かなり若いな)
この若さで護衛官のトップだということは、他のものよりはるかに腕がぬきんでているということだろう。
ユリアはマイヤと同じ年くらいの青年を凝視する。
カーライトの身長はあまり高いとはいえない。ユリアのもとの体と同じほどの身長だから170cセンチくらいだろう。
精悍な印象の顔にそぎ落とされ、無駄なものの一切ない肉体。その黒豹のような印象を少しだけ甘くしているのは肩まで伸ばされたまっすぐな髪だ。
カーライトをみてふと愉快になったユリアは、彼に向けて自分の殺気を少しだけ解放してみる。
男がユリアの狙い通りピクリと反応し、自分の腰に手をやるのを面白がって観察した。
「呼び立ててすまない。カーライト。
初めましてというべきかな?」
済ました顔で挨拶をする。この男は自分が王女ではないと自身の身体で思い知ったに違いない。
ユリアはそう確信するとさっさと殺気を引っ込め、いつもの人好きのする笑顔を浮かべた。
「カーライト。他の者には王女の変貌をどう説明したのだ?」
「はい。お恐れながら昨夜お出かけになった際、記憶喪失になられたと皆には説明しておきました。ユリア様にはご不快でしょうが・・・・・」
思ったとおり、男からは誠実な答えが返ってくる。
ユリアはこういった真面目すぎる男が嫌いではない。自分の思惑を大きく外してくれることがないからだ。
「いや。ご不快ではない。
王女は昨夜お一人で出掛けられたのだな。
ところで二人は王女の自殺の原因に心当たりがあるか?
酷なことを聞いていると思うが大切なことだ。よく思い出してくれ」
カーライトはしばらく考え込んでいたが、なにも思いつかなかったとみえ、ユリアに済まなそうな顔を向けた。
「いえ。これといっては思い当たりません。
夕方散歩に出られた際、マイヤ様にお会いしたとおっしゃっておられて、宮に戻られてからは少しだけ物思いに沈んだご様子でした。
夕食をお持ちした侍女が『姫様がいらっしゃらない。』と騒ぎ出し、それから皆で心当たりをお探ししたのですが・・・・・」
カーライトは一晩中自分を責めたのだろう、頬の辺りがげっそりやつれている。
「マーサは何か王女の様子に気づいたか?」
ユリアはマーサにも同じ事をたずねた。
マーサは王女と同じ顔をした自分がいることで王女の喪失を忘れられていたろうに、自分はなんと彼女に無慈悲なことを尋ねているのだろう。ユリアはそんな到らない自分を責めずにはいられなかった。
「わたしは通いですので、昨夜マイヤ様に呼び出されるまで宮で何が起こったかは知りませんでした。
朝はいつもとお変わりなく、夕方わたしが宮を出るときも『また明日ね。』とおっしゃってくださいました。
一つだけ自殺の原因を思いつくとすればそのう・・・・・」
マーサが言いよどんだのは自分を思いやってだろう。
ならば、それの意味することはたった一つだ。
「マイヤを好きだった?」
「はい。ご自分ではお気づきではなかったと思います。姫様には婚約者様がおいででしたから・・・・。
たぶん、昨日マイヤ様とお会いになった際に初めて気づかれたのではないかと思います」
マーサの両手で覆われた顔から涙が滴り落ちてくる。最後まで不幸だった王女を悼む美しい涙だ。
ユリアはマーサを痛ましげにみつめた。
「すまない。泣かないでくれ。
わたしは王女を死に追いやったものがいるなら、敵を討って差し上げたいと思う。
それがこの身体を与えられた、わたしのせめてもの罪滅ぼしだと思うから」
ユリアは十年ほど若返った自身の身体を見つめながらいう。
「マーサ、今日はもう帰るがいい。昨夜は寝ていないのだろう?」
ユリアはマーサの肩に手を置くと、カーライトに彼女を送るように眼で告げた。
「お気持ちはうれしいのですが、ユリア様にどうしてもお聞きしたいことがあるのです」
マーサは涙にぬれた顔を拭うと、意を決したようにユリアをみつめてくる。
「ん?」
「姫様はマイヤ様に恋をなさっていた。
ご自身がそれにお気づきではないとしても、マイヤ様は気づいておられたはずです。
けれど、マイヤ様は姫様の想いに決して応えようとはなさらなかった。
だから姫様は無意識にせよ、他の方と婚約なさったのではないでしょうか。
マイヤ様がどなたの想いにもお応えにならなかったのは、ユリア様を愛していらっしゃったからなのですよね」
「ああ。そうだろう。
マーサ、おまえはわたしとマイヤの前世のいきさつを知りたいんだね」
「はい。ユリア様はマイヤ様と巡り会うために生まれ変わってきたとおっしゃった。
姫様はあなた様とそっくりなのですよね?
それなのに姫様に少しも心を動かされた様子のないマイヤ様の思いは生半(なまなか)なものではないと思います。
わたしは姫様を、お恐れながら実の娘のように思っていました。
だから知りたいのです。姫様に代わってお二人のことを・・・・」
マーサは王女の死の原因がわたしたちの恋にあると疑っているのだろう。
私たちの前世など愉快でないから、話さなくてすめばいいとおもっていたのだが。
しかし王女の死の原因が他にあることを納得させる為には他に手段がない。ユリアは仕方なく口を開いた。