ヴィシュバーンの末裔 〜月神の誘惑〜 5
第一章 異世界の旅人 C
4
これは藤の花の匂いだろうか。ユリアはふと懐かしい香りに足をとめた。『花の宮』とはよく言ったものだ。晩春の庭は今を盛りと百花繚乱の花々が咲き乱れる。
花に興味などないユリアすら立ちどまったほどだ。おそらく亡き王女はこの庭を心から愛したことだろう。
あの月神がみせた夢のようだった夏の宵。
マイヤの部屋は“紅の占者”というふたつ名には考えられないほど質素な部屋だった。
夢でたどったと同じ道筋をたどり。
音を立てずにドアを開け身体を滑り込ませる。
ユリアは刹那、息が止まりそうになった。
みすぼらしい寝台の上。
カーテンの隙間から漏れた陽光が眠れる美神にやわらかな光を投げかけている。
ごちゃごちゃした、いやいっそ汚いといっていい部屋にこれほどの佳人がいるとは。
読みかけのまま眠ってしまったらしい開かれたままの本。
それは見事なまでに美しい白銀の髪に隠されている。
ユリアはいたずら心を起こすと、眠れる森の美女(スリーピング・ビューティー)を起こしに来たチャーミング王子のごとく恋人に唇を寄せた。
だが、口唇が重なる刹那、あれよと言う間に天地が逆さまになった。
マイヤがユリアを抑えつけたのだ。
けれど、覆いかぶさってきた紅い瞳がユリアを認めると、あきれたような溜め息と同時につき離された。
「驚かさないでください」
「ふーん。こういうことはよくあるみたいだな」
『藪をつついて蛇をだす』ということわざがある。マイヤはどうやらそれをしてしまったらしい。
「やきもちですか?」
それでも一応の逆襲を試みる。
「ふふっ。それは昨日の仕返しか。うまくいってないようだぞ」
ユリアは勝ち誇ったような笑顔になると、両手を男の首に回して口唇を重ねた。
ほんの軽い挨拶のつもりが強く抱きしめられ、舌を絡めとられるのに大して時間はいらなかった。
眩暈を起こしそうなほど長いキスがつづく。情熱的で激しいキスだ。
「あ…んッ………」
自分から信じられぬほど熱い吐息が漏れ、慣れた手つきのマイヤが夜着を引きおろしていくのを映画のワンシーンを観るようにぼぅっと見ていた。
何の拍子にか、寝台から落ちた本が大きな音を立て。
ユリアに現実を連れてくる。
「マイヤ、今はダメだ」
ユリアは恋人の頭をつかんで離そうとする。
それでもマイヤは行為を止めようとしない。ユリアの胸に顔をうずめたままだ。
「なぜですか?」
「王女はどうも婚約しているらしい。
それを解消しないうちにあなたとこうしているのがばれたら大変だろう?
だからわたしは、王女の父親に、ダマーン一世に会いにいこうと思う」
「陛下はこれから朝議です。
あなたと会っている時間はないとおもいますよ」
「なら、あなたもこんなことをしている暇はないだろう」
国王の右腕たるあなたが、と言外ににじませ、ユリアはマイヤの頭を乱暴に揺さぶった。
「今日はお休みをいただきます」
「バカ!あなたが休んだら誰かが迎えに来てしまうじゃないか!?」
「そのとおりです。
わたしと王女の恋。格好の話題でしょうね」
ようやく顔を上げたマイヤはユリアの夜着を元に戻すと、面白がるようにいった。
「マイヤ・・・・・?」
「わかりましたか?
男の部屋にそんなしどけない格好で来てはいけないのです」
ああ、これは・・・・・拒絶だったのか。
それなのに自分は彼との行為に溺れて我を忘れそうになった。マイヤは最初から自分を抱く気など少しもなかったのに。裏切られたような怒りと悲しみがユリアを支配する。
(この男はいつもこうだ。
勝手にひとりで決めて、わたしを置いてゆく)
ユリアは唇を噛みしめた。
「なら、用件だけを言う。
まず、服を一枚貸してほしい。
それからとダマーン一世に会いたい。今夜にでも会えるようにはからっておいてくれ」
ユリアはマイヤが差し出した服を乱暴に掴むと、足音高くマイヤの部屋をでていった。
「ユリア・・・・」
彼女が出て行ったドアに向かって手を差し出している自分にマイヤははっとする。
涙を堪えて瞠られたユリアの瞳。
前世、彼女に出会った幼い日が錯綜する。
あの時も彼女は太陽にむかって顔を上げ、溢れそうな涙を堪えていた。
今もユリアが傷つくことはわかっていた。
彼女は言葉の意図をすぐさま理解する。だから、あんな言葉ばかり選んだ。
けれど、マイヤの胸はギシギシと音を立てる。ユリアを傷つければ我が身もそれ以上に傷ついてしまうのだ。わかっていた。
それに…ユリアに与えられたキスで、煽られた身体は少しも静まってはくれない。
本当は彼女をメチャメチャにして、自分をあの白い身体に刻みつけたかった。『もう、やめて』と懇願されても壊れるほどに抱いてしまいたかった。
たとえ、そうしたとしても自分を覆ったこの不安は消えないけれど。
何故ならここにはあの男がいる。自分からユリアを奪っていったあの男が………。
(わたしはまた、あの煉獄(れんごく)にも似た嫉妬を味わうのだ)
マイヤの中をどす黒いものが出口を求めてせめぎあう。
そして、自分は今度こそそれらを開放してしまうだろう。
その結果、“紅の占者”と国民(くにたみ)から呼び称されている自分が、彼女の前ではただのちっぽけな男でしかないとさらけ出してしまうだろう。妄執にも似た嫉妬の果てに………。
マイヤはそれよりも先に自分の時を終わらせてくれと、あの無責任な創造神に願わないではいられなかった。