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ヴィシュバーンの末裔 〜月神の誘惑〜 4

第一章  異世界の旅人 B

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 まだ肌寒い早春の朝。
 高い靴音がして、扉が閉められる。
 ひとりの女がまだ薄暗い室に入ると、手慣れた様子で散らばった室内を片づけていく。
 彼女の名はマーサ。ヴィシュタール王宮付きの女官である。
 そして、王位継承権第一位である王女の乳母でもあった。


 マーサは四十の声を聞いた頃からふくよかさを増した己の腰を見下ろした。
 亡き王妃とともにこの王宮にあがった頃は蜂のようだと皆に羨ましがられたこともあったが……。
 だが、その王妃も六年前、王女を残し神に召された。
 国王と王妃の仲は睦まじかったから、王女の行く末は心配あるまいと高をくくっていたのだが、マーサの期待はとんでもない形で裏切られた。
 国王は王妃の喪も明けぬうちに新しい妾妃を娶ったのだ。
 そして、王は昼も夜もなく溺れた、己が王女と十も違わぬ妾妃に。
 不幸なのは残された王女である。
 母を喪ったばかりか、父である国王からも見捨てられてしまったのだ。その悲痛は察してもあまりある。
 『何としてでもお守りせねばならぬ』その一心でマーサは第一王女・ユリアに仕え続けた。

 国王に関心を持たれない王女がいかに悲惨なものか。想像ができるだろうか?
 勢力を増した妾妃一派に加担した家臣や女官から死ねよがしのことをされたことは一度や二度ではない。
 薄氷(うすらい)を踏むような日々が続き、そのためいつのまにかこんなに年を取ってしまったのだ。
 でも、マーサに後悔はない。王女を“花の宮”の者たちで守りとおした結果、半年前、王女は神から世継ぎだと選定されたのだから。

 現在、マーサは宮廷官に任じられ、この“花の宮”の女官頭といった地位にのぼった。
 だが、彼女にとって喜ばしいのは自身の出世でなく、寝起きの悪い王女を寝台から引っぺがし、二人並んで宮の中庭を散歩することだった。
 そう、王女の信頼を一心に受けている、そのことがマーサにとって何よりの誇りだったのだ。
 
 だから、昨夜起こったことなど、絶対に信じたくなかった。
 深夜、護衛官の長カーライトとともに王の私室にいきなり呼び出され、驚愕に満ちた真実を聞いた。
 もし、それを告げたのが“紅の占者”といわれるマイヤでなかったら、きっと一笑に付していただろう。
 それでもマーサは邪神がもたらした悪い夢だと思いたかった。
 王女の私室には眠そうな王女がいて、『マーサ。もう少しだけ寝かせてちょうだい』と、いつもと同じ駄々をこねるのだ。

 しかし、マーサの願いはすぐに打ち砕かれてしまった。
 重たげなカーテンを開けても寝台に主の姿はみえなかった。
 しかも、そこは人の温もりを失って久しい。
 やはり、マイヤの告げたごとく王女は冥神トゥーラに召されてしまったのか、マーサは恐ろしいほどの喪失感に襲われた。

 「やぁッ……!」

 刹那、マーサの耳に掛け声が聞こえ、、彼女はあわてて窓辺へと走りよる。
 
 「えっ!?」

 人はこれほど変わることが可能なのか?
 裂帛(れっぱく)の気合とともに黒髪を躍らせる美しい女。
 もし、あたりに張り詰めた気を振りまく女が王女の夜着を纏っていなかったら、よく似た人間もいるものだ、ですませてしまったかもしれない。
 けれど、見目は確かに王女のもの。いや、身体は王女のものだろう。だが、その魂はマイヤのいうとおり、まったく別人だと思い知らされずにはいられなかった。それほどに女は王女とはまるで違う輝きを放っていた。
 女はマーサの窓を開ける音に集中を破られたのか、剣を鞘に納めるとゆっくりと顔を向けた。
 
 「おはよう」

 「………!」
 
 なんと、子どものような笑顔なのだろう。つい先程まで怖いくらいの緊張をかもし出していた人物とはとても思われない。
 そして、無垢な笑顔にマーサは久方ぶりに胸の奥が熱くなるのを感じた。
 もし、こんな笑顔を向けられてその人間を嫌いになれるものがいたら、そいつはえらいへそ曲がりに違いない。

 「おはようございます。姫様」

 結局マーサは胸のドキドキが抑えられず、いつも王女にしているものと同じ朝の挨拶をしてしまっていた。

 「ユリアと呼んでくれないかな」

 その照れたような言葉はマーサへの優しさに満ちていて、少しも強制されたように思えない。それなのに何故だろう、不思議と従いたくなる魅惑に満ちていた。

 「はい。ユリア様」

 「ありがとう。あなたは王女が一番信頼していたひとなんだろう。
 名前を聞かせてもらえるとうれしい」

 この方はとても頭のいい方なのだとマーサはおもった。
 でなければ王女にとって自分がなんであるかを、一瞬のうちに読み取れはしないだろう。
 
 「この宮の女官頭を務めますマーサ・ドミトリーと申します。
 あのう、ユリア様。お手を、左のお手を拝見できませんか?」

 王女の手のひらにはヴィシュバーンに頂いた痣があった。
 神が王女をこのヴィシュタール王国の世継ぎと認めた際に下さった、三枚の花びらの形をした赤い痣だ。
 マーサはすでにユリアが人を騙して喜ぶような人間に思えなくなっていたが、強いてそう頼んだ。
 
 「いいよ、マーサ」

 ユリアは窓越しに近寄ると、マーサの顔の前で左手を広げた。
 その華奢な手のひらには花びらの形の痣が確かにある。
 しかし、マーサは痣があったことより、皮が破けて血を流しているタコのほうが気になって堪らなかった。

 「ユリア様。治療いたしますので中へお入りください」

 マーサは窓から手を伸ばして、ユリアの左手を優しく掴む。

 「こんなのほっといて大丈夫だ。そのうち硬くなってタコなんてできなくなる。
 それよりわたしに今日の予定はあるかい?
 もしなければ、これからマイヤのところへ行こうとおもっていたんだ」

 ユリアは掴まれた左手の上に右手を重ねて、マーサの手を優しく包み込みながら聞いてくる。
 マーサはユリアの手の暖かさに年甲斐もなくときめいた自分に驚いて、思わず手を引っ込めた。
 けれど、彼女はそんなマーサに気分を損ねることもなく、優しい微笑を讃えたままだ。
 だから、マーサは安心してお説教めいたことを口にした。

 「こんな早くにマイヤ様のところへですか?」
 
 「ああ。ここのクローゼットにはドレスしか入ってない。
 後で動きやすい服を作ってもらうとしても、今日は困るだろう?」

 ユリアはそれがまるで当然のことのようにいってくる。

 (彼女はドレスが嫌いなのだろうか?)

 しかし、それよりマーサは無視できない事柄を聞いた気がする。
 
 「もしかしてマイヤ様に服を借りられるおつもりですか?」

 「ああ。他に知り合いもいないしな。
 それに昨日、マイヤと話の途中で寝てしまったんだ。」

 「あのぅ、ユリア様。マイヤ様は『紅の占者』と呼ばれるこの国の至宝です。
 そんな、服をお借りするだなんて・・・・・・」

 「へえ。すごいんだな。」
 
 この人は絶対にすごいだなんて思ってはいないに違いない。
 マーサはユリアに会ってまだ間もないが、それだけは確信できるとおもった。

 「あのう、ユリア様。
 マイヤ様とはどういう・・・そのう・・・・」

 「マイヤはわたしの男だ。
 わたしたちはもう一度巡りあって、結ばれるために生まれ変わってきたんだ。
 だからマーサ、頼む。少しだけ会いに行かせてくれ。
 これがまた夢で、消えてしまわないうちに」

 ユリアは汗の浮き出た顔を朱に染めながらマーサに懇願する。

 (ああ、この方はマイヤ様がここにおいでだから、どんなに過酷な運命でも平気な顔でいらっしゃれるのだ)

 先程まで自分は王女を喪(うしな)ったことを悲しむばかりで、急に異世界に連れてこられたユリアの気持ちを思いやることをしなかったことに思い至る。

 「ですが、ユリア様。
 マイヤ様と結婚は難しいですよ。あなた様には婚約者がいますから・・・・・・」

 ユリアの琥珀の瞳が驚きで見開かれる。
 
 「また、あのおっさんのいやがらせか。
 でも婚約だな。結婚しているわけじゃないんだな! 
 よぉし、ぜんぜんOK!すぐに解消してやる。
 じゃ、マーサ。いってくる」

 そういうとユリアはたくし上げた夜着の裾を翻しながら、全速力で中庭を走っていった。

 (夜着? マイヤ様のところへ伺うのに夜着!)

 そんなものでユリアに出かけさせてしまった自分の失態をおもうと、マーサは頭をかかえたくなった。   
 しかし、中庭を駆けていく彼女のなんと鮮やかなことか。ユリアに魅かれないでいることなどきっと誰にもできはしないだろう。
 マーサは王女を、我が子のように愛した王女を忘れることはこれからもない。
 けれど、しばらくあの太陽のような輝きに満ちたユリアと付き合ってみるのも悪くないと思うのだった。
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