ヴィシュバーンの末裔 〜月神の誘惑〜 11
隠された女神 A
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真昼、雨季の到来を教えた雨は夜半から、優しい霧雨となっている。
銀の針のような雨は、その優しさとは裏腹にアインの美しい髪を存分に濡らした。
『雪の宮』の自室についたアインは、苛立たしげに自身の髪を手巾で拭う。
先程から胸をチクチクと刺すこの感情は一体なんなのか。
本当に腹立たしい。
王女を抱いたのは自身の目的のためで、そこに愛情などというものは存在しなかった。
今まで自分は誰かに執着したことも、ましてや愛したことなどない。そんなアインをあの女はただ一度のキスで揺さぶってきたのだ。
あまつさえ、あの女が他の男に抱かれたと知って、嫉妬のあまり狂いそうにさえなった。
これが恋なのか。この嵐のような感情が・・・・・。
彼女は自分を愛するどころか、憎んでさえいるようなのに。
(ユリアが欲しい。欲しくてたまらない)
アインの下半身は再びざわめき始めていた。
「欲情しているのかや、坊や」
ふいに後ろから女のからかうような声が聞こえた。
(どこから入った?)
いや、どこからも扉の開く音などしなかった。ひとの気配さえも。
女はいきなりその姿をアインの部屋に現したのだ。もちろん人間の仕業などではない。
アインは振り向くと、降ったように現れた女の姿に眼を瞠った。
女の赤い髪も、緑の瞳ももちろん美しい。それよりもアインの眼をひきつけて離さないのは女の肉惑的な体だ。この世のどんな男も誘われてしまいかねない。
「お願いできるの?」
アインは女が神であることを百も承知で頼んでみた。
「ふふっ。面白いことをいいやる。
いくら多情な背の君とて、妾(わらわ)には夫がおる。
そなたの願いはかなえられまいよ」
女はわざと済まなそうに笑いながら、アインに向かってその歩みを進める。
彼女のしなやかな動きにしたがって、幾重にもまいた銀の腕輪がシャランと音を立てた。
「これで許してくりゃれ」
女は濡れたように紅い唇をアインのそれに軽く重ねる。
アインは彼女の放つ甘い香りにクラクラとさせられ、そのまま女を強く抱き寄せた。
女の顎をつかんで、もう一度深く唇を奪う。
口づけは意図したとおりに情熱的なものになり、アインは角度を変えては女の甘い唇をむさぼった。
「そこまでにしときや。
お互い思うは他にあるゆえに・・・・・」
冷静すぎるほどの声。
女は身をかわし、アインの腕からするりとぬけだしてゆく。
「僕が誰を思ってるっていうのさ!」
アインはもっともいわれたくないことを指摘され、眼の前の女が神であることも忘れて怒鳴り返した。
だが、女はそんなアインの怒りすら気にした様子はない。何かを思いついたようにニヤリと笑っている。
「ふむ。そなたには前世の記憶がないのじゃな。
それは不公平というもの。
特別に与えよう。先程の巧みな口づけの礼じゃ」
(そんなのいらない)
とアインがいうまもなく凄まじい衝撃が彼を襲う。アインは耐え切れず、足元からその場に崩れおちていった。
「なにっ!これ・・・・?わああっ・・・・・!」
アインの脳はいきなりの膨大な記憶の流入に負荷をおこしかけている。
しかし女はといえば、その美しい顔に何の表情を浮かべることなく、アインが苦しむのを黙って見下ろすだけだ。
神とは慈悲と冷酷を併せ持つもの、子にとって親がそうであるように。
親というものは、子が親の敷いたレールをおとなしく歩むうちは可愛がりもする。
だが、一度、子が反旗を翻すや否や、親は最大の敵となって子どもの前に姿を現すのだ。
神も同様に自分の思惑を人間が崩すことを決して許しはしない。
そんな無慈悲な神である女がアインの痛みなど、気に留めるはずがないのだ。
少しばかりの時間の後、記憶は余すことなくアインの脳におちついたようだ。呼吸はまだかなり荒いが、彼の顔から苦悶の表情はすでに消えている。
「ずいぶんと巨大なお世話をしてくれるね」
アインの瞳に剣呑な光が宿っている。
彼にとってなんの断りもなく記憶を甦らせられたことより、他人の前で膝をつかされたことのほうが百倍も腹立たしいのだ。
「そうかや。礼には及ばぬ」
「・・・・・・!」
これほどかみ合わない会話もないだろう。アインはアイーヤナに聞こえるようにわざと大きく溜め息をついた。
彼にとって引きずり出された記憶は楽しいものではないうえ、今の自分になんら役立つと思えない代物だった。
(できることなら永遠に忘れていたかった。)
自分を前世の名(シグリル)で呼んだあの女、ユリアに一瞬で心を奪われたのは前世からの連鎖だなどと知りたくなかった。
いや、あの女が前世のアインに縛られていようとも、今の自分が彼女を選んだのだ。
心底僕におびえながら、それでも僕から眼を離そうとしなかったあの女の高い誇りに自分は囚われたのだ。 二度と逃(のが)しはしない。
だれにも彼女を渡さない、マイヤ、あの男になど絶対にだ。
たとえこの白い手を数多(あまた)、人の血で朱に染めようとも・・・・・・。
「それでこの僕に何の用かな、美しい女神様?」
アインはこの女神が愉しい理由で、自分のもとに来たのではないことをいまや確信していた。
「ふぅむ。妾(わらわ)はそなたにまだ名を名乗ってはおらんかったのじゃな。
不手際なことじゃのう」
そういい終えたとたん、女の持っている雰囲気はがらりと一変した。夜よりも濃い闇そのものに・・・・・。
この時代、ヴィシュタールの夜はまだ真っ暗で、人は本能的に闇に恐れを持っている。
もし、人がこの女のもつ闇に身を置けば、恐怖のあまり正気を手ばなさずにはいられないだろう。それほどの真正の闇だ。
この女はどれほどに強大な力を持っているというのか。アインは初めて生まれた『恐怖』という名の感情に竦んだ。
「・・・・・・・」
真正の闇を抱(いだ)いた女がその唇を尊大に開く。
「妾は天地創造の神アイーヤナ。ヴィシュバーンは我が夫神じゃ。
そして今、妾(わらわ)はこう呼ばれておる。
闇と恐怖を司る、冥界の大神とな」
「ふーん。
冥神はトゥーラかとおもってたけど」
アインは眼の前の女にどれほど怖れを抱(いだ)いても、話し方を変えることをよしとしない。彼の
矜持はバカだと思えるくらい高かった。
「トゥーラは我が娘じゃ。
妾(わらわ)は創世神話から削られた神。
我が夫ヴィシュバーンは五百年前、人の娘を愛し、その娘と生まれた子のためにこのヴィシュタールをつくった。
それは世の理(ことわり)からはずれたる所業じゃ。
ましてや己が子孫に玉座を与えるなどは許されぬ。
妾は思い余って娘を縊り殺した。
最高神の愛は卑小な人間に与えるべきものではないからじゃ。
その結果、夫は妾を冥界へと追放した。
したが、妾とヴィシュバーンの力は互角、夫に妾を滅することは金輪際できぬ。
妾は冥界から夫に呪言(まがごと)をいったのじゃ。
『そなたの末裔を一人残らず殺し、ヴィシュタールをもとの砂漠に戻してみしょう』とな。
そして今がそのとき。神の裔は王女一人しか残っておらぬ。
これを殺さば、夫の末裔は絶えこの国は崩壊する。
アインよ! 我が望みはそなたと同じ。ともに手を携えようぞ」
アイーヤナは肩を弾ませ、荒い息をついている。
彼女はあまりに激昂したため、軽い酸欠になったのだろう。
(ようは夫婦喧嘩なわけね。
なるべく、人間は巻き込まないで欲しいよね。
僕はまぁ、ぜんぜんかまわないけどさ。だって、面白そうじゃない?)
アインは無責任なことを考えながら、けろっとした顔でアイーヤナに返事をする。
「あのさ。
盛り上がってるとこ悪いんだけど、ユリアを殺されちゃ困るんだよね」
「ああ、すまぬ。そなたは昔もあの娘に執着しておったな。
ふむ。ではこうしよう。
アイン。そなた、娘を連れてこの国を出るがいい。
二度と戻ってはならぬ。
異国で娘が半年暮らせば、このヴィシュタールは元の砂へと戻りおる。
ヴィシュバーンの末裔がこの国から残らず消えたとき、大地の神ディーンとの契約は終了するのじゃ」
「それはいいけどさ。僕はもともとピレーネ人だし。
でもひとつだけ聞きたいことがあるんだけど。
僕がさっき会った女は誰?王女じゃないよね」
この女神に聞くのが一番手っ取り早いと思ったアインは機を逃さずに聞いてみる。
「それは是(ぜ)とも、否(いな)ともいえる。
妾はその昔、次元を隔てたあの二人の娘の魂を入れ替えた。
そなたが愛する娘と王女のをな。
したが、王女は自死した。
夫は王女の抜け殻にお前の女の魂を戻したのじゃ。
あやつは妾が二人の魂を入れ替えたことを知っておったからの。
そなたが愛したのは、もともとこの国の王になるべきだった娘。
じゃが、娘は異世界生まれなのだよ」
アイーヤナはユリアが異世界生まれだと強調した。それが何故なのかアインにはわからなかったが、そこに何がしかの意味はあるのだろう。
「ふーん。
何であなたは二人の魂を入れ替えたの?」
「あの二人。ユリアとその恋人から生まれる子は・・・・・我が夫ヴィシュバーンが愛した、ビセラという娘の生まれ変わりだからじゃ」
「恋人って、マイヤ?」
アインは自分でさえわかりきったことを聞いたとは思う。いつだってあの二人は自分が敵わないほどの絆を持っているのだから。
アインはますますイラつくと、子供のように爪を噛んだ。
「ああ、そうじゃ」
「それで僕に協力って、ユリアを連れ出せばいいの?」
「それだけではない。
決して、あの娘に恋人との子を作らせてはならぬ。
したが、あの二人はなかなかに手ごわい。
それというのもトゥーラの馬鹿が、あの二人に余分な力を与えたからじゃ。
ふうむ。致し方ない。妾(わらわ)もそなたに力を与えよう。
アイン、眼を瞑りや」
アインは腹を立てていたが、嫉妬に狂った女に逆らうほど馬鹿ではない。アイーヤナに言われたとおり、おとなしく眼を瞑る。
アイーヤナの唇がアインの両目に触れた。
女神の唇が触れたとたん、自分の瞳に永遠に消えることのない炎が灯ったような心地がした。
「これは何?」
アインは自身の熱い眼に触れると、不安を覚えて尋ねた。
「魔眼じゃ」
「魔眼?」
「そうじゃ。
その眼を使えば、大抵のものはそなたの言いなりになる。
じゃが、アイン。よく聞くがいい。
いい加減に使うと、神の制裁を受けることになるぞ。ヴィシュバーンはお前の女を気に入っておるからのう」
「そうするとずいぶん制約されるわけ?」
「そうじゃ。だからくれぐれも失敗するでないぞ。
もし、失敗したら、そなたをトゥーラのおもちゃにしてくれるわ。
トゥーラがそなたを冥界で、たっぷりと可愛がってくれるだろうよ」
アインは背中がゾクゾクしてきた。
と、同時に顔がサァーッと青ざめていく。
アインは忘れていたかった冥界でのあれこれを思い出してしまった。これっぽっちも
思い出したくなかったが・・・・・・。
「わかりました。
最大限に善処させていただきます」
アインの手はふるふると小刻みに震えている。よほど彼も冥界でいやな思いをしてきたらしい。
だが、女神はそんなアインに少しも容赦しなかった。
「こ生意気なガキが急に素直になったものじゃ。
アイン、気張りや」
冥界の大神は大笑しながらそう言い放つと、煙のようにその姿を消した。
アインはアイーヤナがいなくなったことを丹念に確認すると、大きな溜め息をひとつついた。いや、それは溜め息というよりも安堵に近いものといえる。
アインは冥界の大神とすごした時間、自分の肺が闇で満たされていくのを感じた。それは呼吸をするたびにアインを侵食してきて、アインをアインではない何かに変えようとする。
しかもその変貌を悦んでいる自分がいるのだ。
「邪眼か・・・・・・」
アインはその名を小さくつぶやいた。
人をたやすく闇に染めてしまう邪神に与えられたものは、果たして自分の身にどういった変化を及ぼすのだろう。
アインはそれを恐ろしくもあり、楽しみでもある自分が一番邪な存在であるような気がした。