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ヴィシュバーンの末裔 〜月神の誘惑〜 1

プロローグ

 愛しても、愛しても結ばれなかった。
 次、生まれてきたら必ず。約束した。

 『でもどうやってあなたを見つけたらいいの?』

 『僕は僕に、目印をつけるよ』

 『目印?』

 『僕は……に生まれる。だからそれを目印に僕を探して・・・・・』


      序


 ここは迷宮なのか。喉が渇いて堪らない。
 ユリアはアラビアンナイトのような世界に迷い込んでいた。
 この重く艶かしい夜のどこかでシェヘラザードがシャー・ザマンに物語を聞かせている、そんな情景さえ浮かんでくるような夏の宵に。
 ふと視線を上げると、緩やかな曲線を描くモスクのうえには青白い顔をした双子の月。その丸い白銀の面(おもて)のどこにも見慣れた例のうさぎの姿はみえない。

 (これは夢なのだ)

 そうおもいながらも何かに追い立てられるように探し続ける。約束をした。ここにいる。長い間巡り逢うことを待ち続けた、宿命の恋人を・・・・・。
 ユリアはとうとう白い花の咲く果樹の下に一人の男を見つける。

 (この男だ)

 けれど記憶は淡雪のように融けて、ユリアの手から零れ落ちた。
 彼女の両の腕(かいな)には目の前の男を愛しいという想いしか残らない。

 (月読(つくよみ)の命(みこと)?)

 月の光を紡いだような白銀の髪に、暁時(あかとき)の空の瞳。湖のほとりに月光を浴びて佇むその男はユリアが思い描く、月の神そのもの。
 双月神(そうげっしん)は彼の存在を寿(ことほ)いでいるようで、その姿を夜のしじまに浮かび上がらせた。
 湖水が立ちすくむユリアの影をゆらゆらと映し出す。月読は揺らめく影に眼を瞠った。

 「マリア!」

 先程まで冴え凍る月のようだった男が驚愕に震え、自分に両手を差し伸べるのをユリアはスローモーションを見るようにただ黙ってみていた。
 目の前の男が与えたこの胸をふさぐような感情をなんと呼べばいいのか、ユリアにはわからない。けれどこの狂おしい想いをかつて何度も味わったことがあるような気がして胸が詰まった。

 「わたしはユリアだ。上條ユリアだ、月読の命」

 男の間違いを糾す為に放った言葉に、彼の瞳が翳りを帯びたと思ったのはユリアの気のせいだったろう。

 「・・・・・月読?わたしを月神とおもわれたのですか、ユリア」

 そう問いかける男の声はどこまでもつややかでよどみがない。許されるなら一晩中その声を耳元で聞いていたいと思わせるほどだ。

 「ああ。名前を聞いてもかまわないだろうか、わたしの月読」

 「マイヤですよ、ユリア」

 そう、この月光を紡いでつくったような男にその名こそふさわしい。

 「どこから迷い込んできたのですか、ユリア」

 マイヤの綺麗に整った唇が次々と言葉を紡ぎだすのを、まるで奇跡でもみるように見とれてしまう。

 「さあ・・・・・・。
 わたしは今、夢を見ている」

 「ゆ・め・ですか?」

 「ここはわたしの生まれた世界ではない。
 だが、この夢をいつまでも見続けていたい」

 これは果たして愛の告白だろうか。初めて会ったひとに離れたくないということは。

 「何故、自分の世界ではないとおもわれたのですか?」

 「わたしの星に月はひとつしかない。
 それに今夜は弓のような三日月がでていた」

 「そうですか・・・・・」

 丸みを帯びた双月を見上げて頷くマイヤの声があまりにも寂しそうで、ユリアはなんとしてでも慰めたくなる。

 「あなたに初めて会ったような気がしない。
 マイヤはそうおもわないか?」

 だが、それに成功したとはおもえない。あまりにも使い古されたくどき文句をいったから・・・・・。
 それでもマイヤがうれしそうに微笑んでくれたから、ユリアは『まぁ、いいや』という気になった。

 「二人揃って恋に落ちたということですか?」
 
 マイヤの紅玉の瞳に眼を瞠った自分の顔が映しだされた。
 こんな至近距離で眼があってしまったら、この男に魂ごと囚われてしまう。そう思っても彼の瞳に映る至福を手放す気にはなれない。
 いっそあっけないほど唇が重なって、何度も何度も相手の存在を確かめるように口づけを繰りかえす。

 「わたしの部屋にいらっしゃいませんか?」

 「・・・・・・!」
 (それは、つまり・・・・・)

 ユリアは耳まで赤くなり、うろたえる自分というものを初めて経験した。自分が動揺しているということにますます動揺していってしまう。

 「ユリア。あなたは先程、『これは夢だ』とおっしゃった。
 夢に責任を取る必要などないとおもわれませんか?」

 ユリアの気持ちはたぶん見透かされたんだろう。マイヤは夢だということで自分の気持ちを軽くしてくれたのだ。

 「これが、本当に夢だというなら、わたしはあなたのものになろう」

 (わたしはこういう形でしか彼の気持ちに応えられない。
 たぶん、わたしは何かを、忘れてはいけない何かを置いてきてしまったのだ)

 重ねた唇と同じに暖かいマイヤの手にひかれて先程まで迷っていた回廊を歩いていく。
 彼の緊張が触れ合った手から伝わってくるような気がした。
 幾度も角を曲がって辿り着いたマイヤの部屋で、彼がガラスのホヤに包まれたランプに火をともす。
 灯された明かりに照らし出された部屋には、行き場を失ったような本たちが山と積まれていた。

 「すみません。女性を呼べるような部屋ではありませんね」

 照れたようにいうマイヤの右頬が炎を受けてオレンジに染まる。まるで彼の頬が赤らんだようで愛しさに胸が熱くなる。

 「わたしの部屋も似たようなものだ」

 寝台の上まで占領している本を片付けているマイヤに慰めるようにいうと、ユリアはレディが騎士にキスを許すように彼に手を差し出した。

 「かまいませんか?」

 マイヤのその言葉は愛の行為の許しを得るためではなく、二度と会うことはないけれどいいのかと聞いているのだろう。

 「あなたの子どもがほしいな。
 ・・・・だめだろうか?」

 ユリアは手を引き寄せられ、マイヤの腕の中で彼の真剣な眼と向きあう。 

 「ユリアがそれを望むなら・・・・・・・」

 甘やかな言葉は唇で封じられる。
 マイヤの熱い舌が差し込まれ、激しい接吻(くちづけ)に夢中にさせられる。こんなに深くて恥ずかしい接吻は知らない。
 マイヤに甘い接吻(くちづけ)を何度も与えられて、高ぶった体はまるで熱病にでもかかってしまったようだ。

 (どうしてもこの男が欲しい)

 ふわりと抱き上げられ、寝台に運ばれる。
 マイヤの手が動くたび、自分の意識もそちらに移っていってしまう。ユリアは初めて味わうその感覚に翻弄させられていく。

 「マイヤ・・・・いやだ。あ・あっ・・・・・」

 「いや? そんなことはないでしょう」

 彼の手によって自分が潤いはじめている事を知らされる。焦らしながら与えられる快楽のなんと切ないことか。

 「こんなの、変だ」

 「もう黙って! 
 あなたはただ、感じていればいいのです」

 何度も繰り返した行為のはずなのに、この男にされると小娘のように震えてしまうのは、どうしてなんだろう。

 (ああ、わたしはこの男を好きで好きでたまらないのだ)

 「愛している、マイヤ」

 (きっと、たぶん、一生。あなただけを・・・・・)

 この夢を憶えていることができるだろうか。
 いや、これは本当に夢なのだろうか。
 けれど今は現(うつつ)よりもいっそう、鮮やかな夢の中で溺れきっていたい。二度と訪れない恋人の夜なのだから・・・・・。
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